2019年06月15日

前向きに「ローハイド」

音痴で英語も出来ない。それなのに洋カラをやってるの? 無駄じゃない。試しに、無駄の代わりに「ガンパっている」を入れてみた。音痴で英語も出来ない。それなのに洋カラをやってるの? ガンパっているじゃない。これで良しシッカリ前を向いている。

ローハイドが初めてテレビ放映されたのは、私が19歳の頃だ。家業の経師屋が忙しくなったので、退職して家の仕事を手伝っていた。ところが直ぐに仕事は減り、生活は苦しくなった。娯楽はテレビだけと言うありさまだ。その後さらに運に見放され、1年くらいで再び家を出た。何時ものように働いて食うためにね。

生活苦当時、欠かさず観たのが「ガンスモーク」と「ローハイド」。ガンマンよりも、まともな職であるカウボーイの方が好きだ。ズボンの上から着用する革製のズボンカバー姿が格好いい。馬上で鞭を打ち、約3000頭の牛を運ぶのだから凄いと思う。

鞭は生皮(きかわ)で出来ている。英語で言えばローハイド、そこから転じてズボンカバーを指す言葉になったそうだ。私の印象ではローハイド=カウボーイである。ドラマでは隊長を補佐する若者ロディを、クリント・イーストウッドが演じていた。ご存じのように、彼はアメリカを代表する映画スターになった。

何を歌っても似合わない私だが、ローハイドは滅茶苦茶似合わないと思う。難し過ぎて歌えないのに歌いたがるから困る。とにかくカウボーイの雰囲気が大好きなのだ。

馬にも乗れないし、鞭も投げ縄も使えない。銃も撃てないし、度胸も力もない。それでも雰囲気だけでも味わいたい。それにはローハイドを歌うのが一番いいと思う。

歌詞にはカウボーイの仕事が織り込まれている。「追い立てろ、先頭に立て、切り離せ、割り込ませ」と言う、英語の掛け声が繰り返される。牛の大群を運ぶ勇壮なカウボーイの姿が目に浮かぶ。イメージはいいのだが私が歌えば不本意ながらぶち壊し。

馬に乗って、牛の群れの中に割り込み、切り離しては追い立てて牛の群れを運ぶ。悪天もスタンピード(牛の大群大暴走)の恐れもある。カウボーイの仕事は波乱・困難に満ちている。ともかくテキサス州のサンアントニオからミズーリ州のセデリアまで3000頭の牛を運ぶのは大変な仕事だ。

そんな思いでローハイドの主題歌が好きになった。下手なんだから一人で歌って楽しめば好いのに、カラオケ会でも歌いたくなるから困ったものだ。恥ずかしながら年に一度は歌いたい。そろそろ好いかなと楽しみににしている。気持ちだけは何時も前向き。
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2019年06月01日

俺は淋しいんだ(渋谷の思い出)

信じてもらえないと思うが、私はモテたことがある。60年くらい前まで遡るが渋谷の片隅でモテちゃった。多分、多分、多分。

1959年にはフランク永井のヒット・メロディを背景にした映画「俺は淋しいんだ」が公開された。その頃私は19歳、淋しい日々を送っていた。何処も務まらず職を転々としていたが、またもや失業して家族が住む渋谷に帰って来た。

アルバイトの身で将来が心配になったが、夕方になると僅かな小遣いを持って飲みに行った。渋谷駅から青山方面に向けて凄く幅の広い道路が造られていた。不思議なことに工事中の道路の真ん中に飲み屋街が出来ている。

道路が完成する前に立ち退かなければならないから安っぽい仮小屋だ。私が通っていたのはスタンドバーJUN、マスターと女給さん、二人で営業している。

女給さんは「岡田英子です」と言った。フルネームで自己紹介をする人は初めてなので好ましく感じ、また行きたいと思った。様子見だからハイボール1杯飲んで300円払って帰った。この次は、もうちょっとお金を持って来ようと考えながら。

次に行ったとき、追加注文をすると、岡田さんは「300円以上飲むと税金が1割取られるから損よ。アイスクリーム食べに行きません」と言った。二人で近くのうどん屋でアイスクリームを買って、外で食べた。二つで60円、懐の寂しい私にとっては有難かった。

岡田さんは私の淋しさと懐具合を知ってるようだった。いつ行っても300円しか遣わせない。訳は分からないが嬉しかった。夕方に行くとマスターは来ていないし、客も居ない。

いつも二人で話をしたり、店を空けて、近くを散歩したりした。私にとっては至福のひと時だ。こんなことが6ヵ月くらい続いたが、ますます生活は苦しくなって来た。岡田さんに「仕事無いから自衛隊に行くんだ」と言ったら「そう」と言っただけだった。

入隊早々家に用事があって電話を掛けたら、母が「岡田さんと言う人から電話来てたよ」と言った。遠く離れていて会いには行けないが嬉しかった。体調を崩し、1年半で自衛隊を依願退職して家に帰った。何をやっても続かないのだ。

岡田さんに会いに行ったが、飲み屋街は撤去され、辺り一帯は幹線道路に変わっていた。私も21歳、何とかして定職に就かなければと頑張っていたら、岡田さんのことは忘れてしまった。

自分史のつもりでブログを書いているが、過去の記憶が芋づる式に蘇ってくる。「俺は淋しいんだ」を聴くと思い出すのは、スタンドバーJUNと岡田さんのこと。彼女は80歳を過ぎた筈だが記憶の中では若いままだ。気の強い人だったが私には優しかった。

俺は淋しいんだ フランク永井、
作詞:佐伯孝夫,作曲:渡久地政信
渡久地政信が西部劇「真昼の決闘」の主題曲、ハイヌーンからインスピレーションを得て作曲したと言われている。そう言えばダダダン、ダダダンという感じのリズムがそっくりだ。
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2019年05月18日

有楽町で逢いましょう(インド通信)

私にとって歌は思い出、それぞれの土地に結びついている。17歳から22歳の間は東京から九州まで職を転々。金もないし、ラジオで音楽を聞くのが唯一の楽しみだった。「有楽町で逢いましょう」の思い出は、インド通信とホットケーキである。

その歌が出たのは1957年、私は広島県に居た。それから転々として21歳のころから新橋の森ビルにあるPTI通信(Press Trust of India)東京支局で働くことになった。仕事はテレタイプ情報の配達と留守番で凄く楽だった。支局長は日本に来たばかりで日本語が分からない。少しは英語も必要だった。

失業中、自衛隊に入り三ヶ月間の英語訓練を受けた。そして、米軍基地から来るフライトプランを電話で受けながらタイプする仕事に就いた。タイプも英会話も苦手なので落ちこぼれ、依願退職して東京に出た。インド通信はアルバイトだが楽な仕事だ。虚弱体質の私にとっては天の恵みだった。

フランク永井は米軍キャンプでジャズを歌って大好評、私は英語の分からない日本人として米兵に嫌われた。彼等は少しモタつくと他の人と代われと言う、英語でね。私にはギミィアナザと聞こえる。先輩も最初は変わってくれるけど、1ヶ月たったら誰も変わってくれない。その結果、またもや失業者となったのだ。

配達先の一つが当時有楽町にあった朝日新聞外報部、さっそく有楽町で昼食と洒落込んだ。一番安い組み合わせとしてホットケーキとミルクを頼んだ。「あなたと私の合言葉 有楽町で逢いましょう」とか思い出したがが、東京では完全に孤独だった。

インド通信では無保険だが病気に罹るような気もしなかった。そう思えるほど仕事が楽だった。オリンピックを1年後に控えた東京は空前の好景気。ここに居れば何か職が得られるだろうと楽観的になり、何の心配もしなかった。こんな私にも英国の大手通信社に入らないかとの誘いがあったのである。

「君は大学出てないだろう」
とインド通信情報配達先の通信社所長が言った。
「はい、出てませんが」
「英語とタイプが少しできればいいんだが、応募者が大卒ばかりなんだ。大卒の職じゃあないのにね。困ったもんだよ日本は」

私にも一流企業に就職の機会と、大喜びしたがぬか喜びだった。大卒はダメだが、中卒はもっとダメらしい。所長も私が高校も出てないと知ってガッカリ。オリンピックで景気が好かった頃なので、英語が出来て無職の高卒など滅多に居ないのだ。

その時は日本の国家公務員採用試験制度は世界一素晴らしいと思った。学歴の制限がないのだ。例えば、当時の上級試験は大卒程度で実施されるが、中卒でも受けられる。この制度は余り知られていない。私も初めて知ったのは21歳になってからである。何か受かりそうなのを見つけて受験することにした。

有楽町で逢いましょう 1957年7月に発表(私は17歳) 
吉田正 作曲 佐伯孝夫 作詞 フランク永井 歌
そごうデパートの東京店出店のイメージソングとして作られた。
フランク永井の歌声は「低音の魅力」と評され、大ヒット!
個人的思い出としてはホッとケーキとインド通信。

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2019年05月04日

OK牧場の決闘(Gunfight at the O.K. Corral)

「霧笛が俺を呼んでいる」にしても「夜霧よ今夜も有難う」にしても、映画の筋書きと歌とは別物の感じだ。その点、「OK牧場の決闘」や「真昼の決闘」は違う。歌そのものがストーリーになっているから、歌っていると映画に登場するヒーローの気分になってしまう。ハゲで短足、自分勝手の弱虫なのに困ったものだ。

「OK牧場の決闘( Gunfight at the O.K. Corral)」は、1881年10月26日、かつては銀山の町として栄えたトゥームストーンのO.K. コラール付近の路上で起こった銃撃戦についての物語である。

コラールとは馬や牛などを入れる囲い場、牛や馬を一時的に預けたり繋いでおくために用いられる。私のイメージは駐車場である。映画のタイトルは直訳のまま「OKコラールの銃撃戦」がいいと思う。牧場ではないし決闘とも違うのだ。

保安官ワイアット・アープをヒーローとする映画として「荒野の決闘」「OK牧場の決闘」「ワイアット・アープ」の三本を観たが、銃撃戦シーンで一番リアルなのが「ワイアット・アープ」と思う。

と言うのは、実際の銃撃戦はコラール近くの路上で起こり、30秒で終わる。他の2作は銃撃戦場面が長い。娯楽映画として見せ場を作るために創作したのだと思う。実際の事件は保安官が武装解除を求めた際に偶発的に起きたのだと思う。もちろん、アープ家とクラントン家との確執があってのことだが。

この歌はワイアットの気持ちを歌っている。
……my back’s against the wall Have you no kind word to say before I ride away……
……If the Lord is my friend We’ll meet at the end of the gunfight at O.K.Corral……
この辺りがグッと来る、意味は分からないけれど何となく。

それなのに思わず力が入ってしまう。音痴だから変な力がね。普通の人の10倍は変に聞こえると思う。百倍かも知れない。誰も居ない所で一人で大声で歌ったら気持ちいいのに、人前で歌いたくなるから困ったものだ。か細い声で遠慮しながら歌っている。

銃撃戦の結果
ワイアット・アープ
ワイアット・アープ:保安官 無傷
ドク・ホリデイ:アープの友人 大腿部負傷
バージル・アープ:保安官で、アープの兄 右太腿負傷
モーガン・アープ:アープの弟 負傷

アイク・クラントン組
アイク・クラントン: 銃撃戦には不参加(逃走)
ビリー・クラントン:アイクの弟 死亡
フランク・マクローリー:アイクの友人 死亡
トム・マクローリー:フランクの弟 死亡
その他、銃撃戦中に逃走した者もいる。
(銃撃戦の結果はWikipedia情報の要約)
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2019年04月20日

「くちなしの花」と二人の人生

俺の言葉に泣いた奴が一人
俺を恨んでいる奴が一人
それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
みんな併せてたった一人

宅島徳光が大学ノートに書きつづった恋人への切ない想いが「くちなしの花」。彼はこの花が好きだっただけでなく、戦争末期、口には出して言えない(口なし)の心の記憶としたかったらしい。冒頭の詩はその一節。

宅島徳光略歴:慶應大学卒業、第13期海軍飛行科予備学生、1945年4月9日、一式陸上攻撃機の機長として出撃、任務中殉職、享年24、海軍中尉。
以上は『遺稿くちなしの花 愛する祖国の人へ』宅島徳光著 大光社よりの引用。

大ヒットして1974年のNHK紅白でも歌われた「くちなしの花」の原点は、「遺稿くちなしの花 」にある。宅島中尉の詩に美空ひばりが補筆した「白い勲章 」もあるが、私は遺稿に思いを馳せながら渡哲也の「くちなしの花」を聴く方が好きだ。

映画「やくざの墓場 くちなしの花」では主役を演じた渡哲也の歌「くちなしの花」が要所で流された。渡の役は警察組織と反社会勢力の癒着の構造の中で、もだえ苦しみ暴発する刑事だった。この映画の上映前年には「仁義の墓場」が公開された。渡が演ずるヤクザは29歳の若さで壮絶な人生の幕を自ら閉じた。

戦争中、「遺稿くちなしの花 」を書いて大空に散った宅島中尉。一方は、戦後の破れかぶれの人生に自分で終止符を打った新宿のヤクザ。彼は反省することなく笑って死んだ。全く違う二人の人生を一つにしたのが渡哲也の「くちなしの花」と感じている。私は弱虫で利己主義者だが強い愛、強い心に惹かれる

実在のヤクザA夫の生涯を描いた「仁義の墓場」のキャッチコピーは「おれが死ぬ時は カラスだけが泣く! 仁義・組織・盃・掟に牙むいた戦後やくざの語り草」。A夫は29歳で刑務所の屋上から身を投げて死んだ。独房に残された遺書にはこう書いてあった「大笑い三十年のバカ騒ぎ」。

昭和29年1月29日、自ら幕を引いた破滅の人生を彼らしく結んだつもりだろう。くしくも昭和年号と同じ29年だった。この映画は渡哲也の病気療養後の第一作。「病み上がりで本調子ではなかったが、それがかえって幸いしてA夫の不気味な迫力をいやが上にも増大した(Wikipedia)」。

戦時だからこその深い愛、戦後の闇と裏切りの社会が育んだ底知れぬ虚無。戦争さえなければ宅島徳光は愛のままに生き、A夫は底なしの闇にハマり込むこともなく、人として立ち直る機会もあったと思う。歌と映画から口なしの声が聞こえて来る。

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ネットで購入した『遺稿くちなしの花 』。

なき吾子のこよなく愛すくちなしの雨にうたれて咲くぞ寂しき
昭和36年4月 宅島徳次郎(宅島徳光の父)

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2019年04月06日

夜霧よ今夜も有難う 

私にとって映画の旅は、「カラブランカ」方面から「夜霧よ今夜も有難う」方面への旅だった。10歳から15歳くらいまでは洋画しか観なかった。内容なんかどうでもよかった映画の中にある夢の世界が見たかったのだ。終戦直後、「灰燼に帰した東京に忽然と姿を現したワシントンハイツ」の影響を受けたのである。「 」内は秋尾沙戸子 新潮社発行の『ワシントンハイツ』より引用。

10歳から新聞配達のアルバイトを始めたが、賃金は1ヵ月1000円と、相場の半分以下だった。その内の700円を食い扶持として母に取られたが、残りで映画を観た。封切が100円以上の時、渋谷のテアトルSSでは古い洋画を40円でみせていた。「毒薬と老嬢」「夜も昼も」「われら自身のもの」等を、子供には難しいとか一切考えずに映画が替わる毎に観ていた。

17歳の頃から邦画にも目を向けるようになった。時代は日活無国籍アクションの興隆期だった。その後全盛期を迎え、爛熟期に登場したのが「夜霧よ今夜も有難う」である。その頃には私は27歳にもなっていた。何と言ったって無国籍だから洋画のイイところ取り、ファッションとかジャズ、それに煙草の吸い方とかね。

「夜霧」は取りすぎで和製カサブランカと呼ぶ人もいる。リック(ハンフリーボガート)はカサブランカにある「リックス・カフェ・アメリケイン」の主人で、相良(石原裕次郎)は横浜のナイトクラブの経営者だが、それはそれぞれの表の仕事。イルザ(イングリッド・バーグマン)はレジスタンスのリーダーの妻、秋子(浅丘ルリ子)はアジア某国の高官の妻、これが主な登場人物である。

試みにリックと相良の人生を一つに纏めてみた。男の裏の仕事は密出国を援助する「逃がし屋」である。4年前のことだが将来を誓い合った女が突然訳も話さずに何処かに消え去った。それが今になって、前触れもなく突然に現れたと思ったら頼み事だ。それはあまりにも身勝手なことだった。夫が革命の大義を全うするには、出国しなければならないから助けてと言うのだ。

行方知らずの4年は長すぎる。オマケに他所の人の妻になっている。男は今も独身で女への愛も冷めてはいないから悶々とする。妻となった女も悶々、それなりの事情はあるからね。結局、男は夫婦一緒に密出国させる。

男のところを相良と変えてもリックと変えても大丈夫。「カサブランカ」と「夜霧よ今夜も有難う」のストーリーは本当によく似ているから。ところで、「遥かなるアラモ」「OK牧場の決闘」「ハイヌーン」は歌詞から映画が連想できるが、「夜霧」の歌詞からは映画の内容が少しも連想できない。歌は別物のような気がする。
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2019年03月23日

君はわが運命(You Are My Destiny)

ポール・アンカの「君はわが運命」は易しそうと思っていたが、歌ってみると難しかった。実は私って本当は凄いんだ。多くの成功体験を持っている。ただの音痴じゃないんだよ。

禁を破って自分の歌に関して初めて書いてみた。タイトルは「音痴のカラオケ」、そもそも書き手は音楽について書く資格がない。それなのに書く。自己評価はどうしても甘くなる。

先日、カラオケ会で「君はわが運命」を歌ったが、おおむね良好、苦手なサビの部分も無難にこなす。ところが、終わりのア〜〜〜と言う高い声を出すところで躓き、思わすエッヘヘ〜〜とか笑ってしまった。どんな状況でも笑うことは楽しい。

ところで、カラオケ画面では歌詞の文字色が歌の進行に応じて変化する。それで色の変化について行くことが最初の目標となった。日本語だと比較的早く慣れることが出来るが英語だと難しい。発音が苦手で口が回らないから特に難しく感じた。

苦節三年、ようやく色の変化に応じて歌える様になった。次の課題は音程である。練習方法はいろいろあるらしいが、私が得た情報の中で一番簡単そうなのは、自分の歌を録音して聴くこと。本当はこれだけはやりたくなかったけれど、仕方がなかった。

現実を知れば、人前で歌う気がしなくなるので自分の歌だけは聞かない方がいいと思っていた。しかしカラオケ会に入って3年たったから、如何に自分が下手かを再確認しても止める心配はなくなった。それで嫌々ながらだが、やってみることにした。

聴いてみて驚いた。ここまで下手とは知らなかった。オマケに声が悪いのだ。我々音痴を慰める言葉として「楽しければいいじゃない」と「いい声しているよ」と言うのがある。人の優しさには感謝するが、愚かな私はそのまま信じていたのだ。長いことね。

ともかく、これからは音程に気をつけたい。何かを変えれば何かが変になるけれど、それは気にしないことにする。自分の歌を聴いて分かったけれど、元々変だから今更気にしても仕方がない。分かっただけでも収穫だ。耳は口ほど悪くはなかった。

来年80歳になる私は、書くことと歌うことは健康維持の二本の柱、決して疎かにはできない。音痴でも歌い、駄文でも書く、与えられた場所でも花を咲かすことは出来ないが、楽しむことは出来る。健康であれば気の持ちようは、好きなようにコントロール出来る。これが唯一の得意技。
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2019年03月16日

ジャニー・ギター(大砂塵)

「あの歌この歌」とか書いているが音痴だから無理だ。代りに好きな歌にまつわる思い出や映画などを書いている。自分のブログだから書き放題だがリスクもある。それは誰にも読まれないこと。危なくはないけれど、けっこう虚しいし寂しい。

映画を観て主題歌が好きになることが多いのだが、ペギー・リーの「ジャニー・ギター」の場合は逆だった。歌が好きなので映画を観たくなったのだ。原題は「ジャニー・ギター」だが内容が分かり難いと考えたのか、日本ではタイトルを「大砂塵」とした。この映画は1954年に公開されたが、当時は西部劇が大好きだったのに、なぜか観た記憶がない。

好きな歌が大砂塵の主題歌であることを知った時、ビデオレンタルに行ったが無かった。それが最近になって2回もテレビで放映された。両方観たが極めてユニークな映画だ。こんな西部劇は観たことない! これからもないだろう。

先ず、ネーミングが笑っちゃう。ジャニー・ギターとダンシング・キッドとはね。ギター弾きのジャニーがギターを背負った馬上姿はいいとしても、ダンシング・キッドって何だろう? 

ビリー・ザ・キッドは西部開拓時代の強盗、「駅馬車」のリンゴ・キッドは無法者。そして、この映画のダンシング・キッドは銀行強盗にしろ駅馬車強盗にしろダンスのイメージが湧いてこない。真面目なのかふざけているのかサッパリ分からない。

若い時、日本でも流行っていたペギー・リーの「ジャニー・ギター」が好きだった。彼女はソフト・アンド・クールな歌声で知られていた。「ゴールデン・イヤリングス」も好きだが、残念ながらカラオケ店にはなさそうだ。

「大砂塵」の音楽は洋画ファンなら誰もが知っているヴィクター・ヤングが担当。なんと「ジャニー・ギター」の作詞者はペギー・リーその人である。そんな訳で少年時代に観そこなった「大砂塵」をぜひ観たいと願っていたら、テレビが叶えてくれた。

ユニークその2は、決闘をする主役のガンファイターが二人とも女性であること。酒場の女主人ヴィエンナ(ジョーン・クロフォード)と駅馬車襲撃で殺された犠牲者の娘エマである。

逃げるウエディングドレスのような白い衣装のヴィエンナと、馬で追う黒ずくめのエマ&喪服集団が思いもよらぬ異様なシーンを展開している。この映画の男は添え物に過ぎないから名前もギターとダンスで好かったのかも知れない。

「大砂塵」はヴィクター・ヤングの音楽で始まり、ペギー・リーの歌で終わる異色の西部劇。美しいメロディーと女の闘いとのギャップが異様で興味深い。この時代の西部劇としては珍しく善玉と悪玉の区別がハッキリしない。マッカーシズムによる赤狩り旋風を暗に揶揄する内容との説もある。

小林旭の「渡り鳥シリーズ」も、この映画を引き継いだような感じがする。「小林旭 ジャニー・ギター」で検索するといろいろ出てきて面白い。やはりペギー・リーの歌が一番いいと思う。私も歌いたいのだが、音痴としては遠慮したい気分もある。少人数でやる友達同士のカラオケではコソコソ歌っているけどね(笑)。

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2019年03月09日

A子さんの思い出(越後獅子の唄)

歌はいろいろなことを思い出させてくれる。歌から連想されることも多い。前回のブログで、6畳一間に6人家族と言う超過密状態の我が家にA子さんが転がり込んだこと、そして三人で寝たことを書いた。それがA子さんと恋人、そして私と誤解を与えたような気がして気がかりだ。補足説明をしたいと思う。

結婚を反対されて家を出たが、恋人の学生さんは友人の部屋に身を寄せ、A子さんは親戚である我が家に来た。清い交際であることを御両親に知ってもらう為と思う。

話は戻るが、学生さんは書生としてA家に同居していた。A子さんの父親は強面の請負師だが、彼女も気の強い点では負けてはいない。父親に抗議して学生と一緒に家を出てしまった。

一方、我が家は一つの布団に二人ずつ寝ているのに三人目が来てしまったので大変だった。A子さんは学生の援助もするので昼も夜も働いて、帰って来るのは夜中だ。学生は書生の職を失ったが、彼女は彼が勉学に専念することを望んだ。

初めは夜中に帰ったら最短距離で寝れるように玄関に近い次兄側に寝た。狭くて足の踏み場もないからね。その頃、次兄は既に中学生、穏やかな気持ちではなかった思う。一つの布団に三人だからピッタリくっつかないと寝れないのだ。

結局、A子さんは私の横に移った。幼い子供と思い込んでるようだが、一緒に映画を観たときから2年もたっている。私だって意識する。しかし犬を腕力で引き離した一件を見て彼女の怖さを知っていた。自分を抑えることが出来たのは恐怖心からだと思う。

A子さんは私の横で寝たことは覚えていないと思う。あれから67年たっているのに私は覚えている。「越後獅子の歌」のせいだ。聴いたり歌ったりするごとに思い出す。彼女にとっては迷惑な歌だが、私にとっては懐かしい歌である。

音痴だから新しく歌を覚えるのが苦手だ。懐メロばかり歌ってたら思いもよらぬ収穫があった。歌にまつわる昔のことを次々と芋づる式に思い出すのだ。こうなったら止められない。在職中は過去を振り返るなんて、老人がすることだと忌み嫌っていた。考えはめまぐるしく変わり続ける。まだ若いのかな?

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2019年03月02日

越後獅子の唄 美空ひばり

生まれてから22歳までの間、私の存在を示す物証は戸籍謄本と1枚の写真しかない。だから記憶をたどって一生懸命に思い出している。歌はその手掛かりになるので大好きだ。古い歌を歌うと面白いように記憶が蘇えって来る。

1951年、話題の正月公開映画は「とんぼ返り道中」だった。私にとっては思い出深い映画である。7歳年上のA子さんに連れて行ってもらったのだ。多分私は小学4年くらいだった。映画の内容は覚えていないが、A子さんのことは鮮明に覚えている。

従姉妹のA子さんは母子4人で満州から引き揚げて来て隣に住んでいた。父親はシベリヤに抑留されていた。母親は優しすぎるので長女のA子さんが父親代わりをしていた。気の強いしっかりした人だった。彼女は家の前の道路で犬が交尾をしているのを見ると、怒ってバケツの水をぶっ掛けた。それでも止めないと二匹の犬を腕力で引き離した。見ていた私はビックリした。

そんなA子さんが大好きだったので、映画に誘われると喜んでついて行った。「とんぼ返り道中」の内容は忘れたが、主題歌の「越後獅子の唄 美空ひばり」については、よく覚えている。流行っていたからだと思う。A子さん一家は父親がシベリヤから帰って、しばらくすると大田区に家を新築して引っ越して行った。

越後獅子の唄を聴いても歌っても必ずA子さんを思い出す。彼女と最後に会ったのは55年前のことだった。喧嘩していた親子は仲直りしたようだ。結婚して実家の一隅に家を建て、夫となった元学生さんと暮らしていた。

話しは戻るが、A子さんは年下の学生さんと恋仲になり、親に結婚を反対されて家出した。そして狭い我が家に来た。今では考えられないが、親子6人が6畳一間に重なる様にして寝ていて、そこにA子さんが来たのだ。私は一つの布団に三人で寝ることになってしまった。住宅難の当時としても異常な状態だった。

ところで、ライブダム・カラオケの映像だが、越後獅子のでんぐり返しが下手過ぎる。幼い子供の練習とは言え、もうちょっと上手くないとね、プロなんだから。私は音痴で音楽については語れない。それで動画について、ちょっと触れてみた。歌詞に「芸がまずいと叱られて〜♪」とあるが当然のお叱りである。
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